エルメスでは馬具製造の出自から、簡素を旨とするデザインを得意としてきた。簡素性を極めると、「調和」や「美」の構成則を探る幾何学や数論にまで辿りつく。「普遍の知識の鍵を所有している」幾何学者として、ピタゴラスがしばしば賞賛されている由縁だ。五角形をモチーフにした彼を讃えるスカーフ「ピタゴラス」(1999年)のほか、テーブルウェアにも同名のシリーズがある。傑作との評判が高い「球形が奏でる音楽」(1996年春夏)は、ヴィオラを中心に数式、円などの幾何学文様、原子、五線、音符などがデザインされたものだ。ここにはピタゴラスの数論と、弦楽器の名匠ストラディヴァリの実践が絵画化されている。ピタゴラスはあらゆる物を数に還元し、数論に基づいて音楽、幾何学、さらにこの両者に則って天文学理論を打ち立てた。天球に輝く星々も幾何学的調和のうえに成り立ち、宇宙は数論に基づく規則的な旋律「天球の音楽」にのって運行していると考えたのである。ストラディヴァリはこの思想をもとに音楽理論を構成し、数々の名器をつくった。カタログのテキストは次の通りである(イメージがないため分かりにくいかもしれないが、イメージとともに見てもさほど明確に理解できるものではなく、それもエルメスのひとつの特色である)。「音楽と数学を結びつけたストラディヴァリは、イタリア、クレモナ出身の弦楽器作りの名匠であった。彼は古代にあったピタゴラスの考え方とその定理を応用して、音楽とは単なる技法の芸術ではなく、本質的には科学であることを証明した。1690年に製作された彼の(メディチのヴィオラ)が、この絵では自由な発想で構図に組み込まれているが、それでも(球形が奏でる音楽)として、ダイヤモンドのような音が聴こえてくる。正確な円から生まれたその音が耳に届くとき、幾何学の力にめまいを覚える」エルメス・ジャポンの訳では「球形が奏でる音楽」となっているが、ピタゴラスの思想を念頭において「天球が奏でる音楽」との含みを持って読んだ方が分かりやすい。19世紀イギリスの美術批評家、ウォルター・ペイターが「すべての絵画は音楽を志向する」と書いたように、視覚芸術を志す芸術家にとって聴覚に響く作品を創造することが長く理想とされていた。デュマもエルメスの作品に「響き」があることを期待しているといい、「音楽」の年の広報誌にも、詩人ポールークロ上アル「眼が聴いている」という言葉を巻頭で引用している。